【コラム12】 三戦(サンチン)の考察
三戦(サンチン)とは剛柔、松村、元手、上地流などが用いる型で、特に那覇手(剛柔流)のサンチンは那覇手の祖、東恩納寛量翁が創作したもので、のちに広く世に知られるようになりました。
それゆえに剛柔流では「サンチンに始まりサンチンに終わる」と言われ、重要な基礎鍛錬型で剛柔流の奥妙はサンチンの中にあり、サンチンほど難しい型はないとさえ言われています。
それはサンチンが剛柔流の開手型の基礎となる基本型であり、自己鍛錬による堅固な肉体と武道的精神を養うためであるからです。
またサンチンとは「三正」のことで、頭正・身正・馬正を指し、修行者は常に頭を正し、身を正し、馬(脚)を正さねばなりません。
●頭正とは・・・頭頂を縄で上に引っ張り上げるような気で、頭部の姿勢を正しくする頭頂部と前額を上方向に押し上げる。頭部の筋肉を引き締め、下顎は内側に引く。
視線はまっすぐ前を向き、歯を食いしばって口を横に引き、舌先は上口蓋につけ、頂刀(上に押し上げる力)を頭頂(百会穴)に集中させる。
●身正とは・・・胸を張って脊髄をまっすぐに伸ばす。そして咽喉、丹田の気を起こすことによって口、咽喉、下腹丹田が一直線の気道で連なって呼吸や発力が容易になり、「中気」を開通させる。両肩は落として両肩甲骨で脊椎骨を挟むようにして締め、背中の膏こう穴(つぼ)を防護する。
脊椎骨は上から下に垂直に押し込むようにして尾骨を締め、一本の直線になるようにする。
腰部と腹部絞めて上に引き上げ気力を丹田に集中して全体を形成する。
※気とは人体内で運行変化する精微な物質のことで、一定の運行経路があり、この種の気の運行は鍛錬できるものと考えられている。
両腕は肘から屈曲させて胴に密着させ、両肘と丹田を頂点とした三角形を形成する。
突きを起こす時に一番大事なことは丹田を締めて腰を入れ、「チンチク」がかかっているかどうかである。
チンチクをかけるとは、僧帽筋、三角筋、大胸筋、大円筋に力を入れて筋肉を収縮させる運動を行って拳を出していく。このとき脇を締めながら突き、受けをおこなう。
よってチンチクのかかっている突きは、瞬間的に力の作用が倍加することを意味し、それを「一寸力」(頸力)といって、相手に対して強力な破壊力となるのである。
●馬正とは・・・サンチンの基本功の訓練では、両足の足底と踵は地面に食い入るようにしなければならない。(足底の皮膚のたるみを取って地面に密着させ真空状態にする)
運歩は呼吸に合わせておこなう。踏み出しは柔らかく、すり足で内側に円を描くように前に進み、後ろ足のつま先線に前足の踵が並ぶように静かに落地する。くるぶしは内側にねじ込むようにし、両膝は逆に外側に向ける。上体を下に沈め、左右の腸骨で仙骨を押し挟むようにして胯股両側の筋肉を上につり上げ、気力は丹田に集中して会陰を締める。
【コラム11】〈拳之大要八句〉考察④
人身同天地 血脈似日月
法剛柔呑吐 身隨時應變
手逢空則入 馬進退離逢
目要觀四向 耳能聽八方
①人身は天地に同じく、血脈は日月に似たり。
②法は剛柔と呑吐にして、身は随時応変する。
③手は空に逢えば則ち入り、馬は進退離逢す。
④目は四向を観るべく、耳は能く八方を聴くべし。
立ち会いにおいてはまず地形を確認し、その後に相手の形勢を確認する。
つまりは、周囲の状況を念頭に置き、目は相手の一部に付け、目の余光、耳の聴力、皮膚感覚を総動員して相手の動き、虚実の変化を分析、判断し、即座に対応することが大切である。
こと戦においては【虚実】の見極めが肝要で、かの『孫子兵法』においても〝兵は詭道なり(戦争とは所詮だまし合いに過ぎない)〟とあります。
あらゆる情報戦略を駆使していかに相手をだませるかで大きく戦局は決まります。
まずは身体に備わった〝感覚〟を磨き上げて立ち会いに臨むことに力を注ぐことが大切です。
【コラム10】〈拳之大要八句〉考察③
人身同天地 血脈似日月
法剛柔呑吐 身隨時應變
手逢空則入 馬進退離逢
目要觀四向 耳能聽八方
①人身は天地に同じく、血脈は日月に似たり。
②法は剛柔と呑吐にして、身は随時応変する。
③手は空に逢えば則ち入り、馬は進退離逢す。
④目は四向を観るべく、耳は能く八方を聴くべし。
自分の虚実を正しく把握し、相手をよく観察して虚実を見極め、そこに隙が生じれば一気に攻め込み、隙が無ければ相手を動かし崩して隙を生み出す。
それは常に馬歩の進退離逢と緊密に呼応することが望ましいということです。
当時は馬は拳法の基礎であって、歩型、歩法が拳法の運動法則に叶っており、進退に無駄がなく地を踏む時は根が生えたように安定させることを理としていました。
〝手と足の動きが一致しなければ小鬼も倒れず、手と足が同時に至れば金剛も倒れる〟
というたとえがあります。
地に根が生える体幹をつくり、手足を同調させて馬のごとく運動法則を生み出すことが肝要であるという内容です。
【コラム9】〈拳之大要八句〉考察②
人身同天地 血脈似日月
法剛柔呑吐 身隨時應變
手逢空則入 馬進退離逢
目要觀四向 耳能聽八方
①人身は天地に同じく、血脈は日月に似たり。
②法は剛柔と呑吐にして、身は随時応変する。
③手は空に逢えば則ち入り、馬は進退離逢す。
④目は四向を観るべく、耳は能く八方を聴くべし。
〝拳の法(拳術)で最も大切なものは「剛柔相済」と「呑吐浮沈」
剛と柔は相対する概念であるが、武術においてはその統一、相互転化を重視
剛に過ぎれば折れやすく、柔に過ぎれば力負けするため相互に転化させること
呑とは収める(守る)意味
吐とは技を発する意味
浮とは攻撃を意味
沈とは相手の技を下圧する意味〟
空手の受けは単に相手の攻撃を受け止めるだけでなく、それを受け流したり引き込むことにより相手の重心を崩してその攻撃を無力化し、逆に隙を生じさせることが肝要です。
そして充分に蓄積した頸(※1)を相手の薄弱な部位に矢のごとくすばやく吐出することが技の発し方であり、それには相手の技を下圧させるために自らの気と身体を沈めて重心を下降させて安定させることです。
また剛柔の関係からは吐と浮は柔法で、呑と沈は剛法とあります。
中国武術永春白鶴拳には『呑吐浮沈の法と剛柔相済の機』を有機的に運用すれば敵に克ち勝利を得ることができるとあるが、意味するところは同じで、つまりはそれを体得してはじめて相手の虚実を見極め、臨機応変に自分の思うとおりの攻防の技を発揮することができるようになるということです。
※1 発勁とは発生させた勁(運動量)を対象に作用させることである。細かく言えば特定の方法(門派により異なる)にて発生させた勁を接触面まで導き、対象に作用させることである。
【コラム8】〈拳之大要八句〉考察①
人身同天地 血脈似日月
法剛柔呑吐 身隨時應變
手逢空則入 馬進退離逢
目要觀四向 耳能聽八方
①人身は天地に同じく、血脈は日月に似たり。
②法は剛柔と呑吐にして、身は随時応変する。
③手は空に逢えば則ち入り、馬は進退離逢す。
④目は四向を観るべく、耳は能く八方を聴くべし。
『武備志新釈』によれば
〝中国の伝統哲学に「天人合一」というのがあり、武術においても「人身一小天地、天地一大人身」の考え方がある。
すなわち人身は小さな宇宙であり、大宇宙(自然界)と同じく陰陽の二気が充満し、その法則に従って体内を周流するとともに、大宇宙と一体化しているという思想である。
人は大自然とかけ離れては存在し得ず、逆に大自然の中にその運動法則を探すべきである。
それが「内外合一」であり、また主観(意識)と客観(技法原理)を統一するということなのである。
こうした考え方は、武術修練における時間や場所の設定まで及んでいる。
血脈(気、血の循環)もまた自然の法則に従い、一刻も停止することなく日夜体内を周流している。〟
とあります。
中国哲学に限らず人身は小宇宙であるとは周知のところ、生命誕生の奇跡から細胞は新陳代謝を繰り返し、やがて死んでいくまで想像を絶する宇宙規模の変化が体内で起こっています。
まさに人身は大宇宙の中に存在する小宇宙であり、双方一体とする思想は極めて自然と考えます。
〝主観(意識)と客観(技法原理)を統一する〟とある拳之大要八句①の項目は、まさに武術を学ぶ上での〝きほんの基〟であるといえます。
【コラム7】 拳之大要八句
沖縄空手秘伝書に 『武備志』 があり、この武備志の一文に〝拳之大要八句〟があります。
以下引用すると・・・
人身同天地 血脈似日月
法剛柔呑吐 身隨時應變
手逢空則入 馬進退離逢
目要觀四向 耳能聽八方
とあります。
また〝この八句は拳法の要諦である〟と締めくくってあります。
文字を見ただけではさっぱり意味がわかりませんがまずは自身の頭で考え、自分なりの解釈を持つことが必要です。
解説は次回に!
【コラム6】 心訓五箇条『礼の心を尽くす』
〝礼〟の必要条件とは、『泣いている人と共に泣き、喜びにある人と共に喜ぶこと』とあります。
つまり、他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することになります。
空手の型は礼に始まり礼に終わります。また、稽古の始まり終わりには『三礼』を行います。
三礼とは
1,神前に礼 2,師範に礼 3,お互いに礼
の三つであり、神前へは、自分は生かされていることへの礼儀、師範へは、教えを説いてくださる先生や先輩への礼儀、お互いへは、共に空手を学ぶことができる仲間への礼儀となります。
このように稽古中においても幾度となく〝礼〟を行い、神や他人の気持ちに対する思いやりを形で表現します。
そして自分自身への〝礼儀〟を身につけることで、自らの思考や行いを外すことなく、自分を正しい方向へ導いていけることに繋がります。
【コラム5】 心訓五箇条『義の心を重んじる』
武士道の世界では『〝義〟とは、武士道の光り輝く最高の支柱』とあります。
また、『義をみてせざるは勇なきなり』という言葉どおり、〝義〟は〝勇〟と並ぶ武士道の双支柱であるとされます。
日本国語大辞典では 『五常(仁・義・礼・智・信)の一つ。他人に対して守るべき正しい道。物事の道理にかなっていること。道義。』とあります。
漢字における「義」には、本来「外から来て固有ではないもの」という意味があり、後には 血縁 関係にない仲間同士を結び付ける倫理を意味するようになったそうです。
現代社会においては仲間同士を結びつける倫理が低下している状態で、「自分さえよければ」という感も否めません。
永心道空手を学ぶうえで〝義の心を重んじる〟ということは、自分が生きる中で他人や仲間をどれだけ大切にできるかということであり、人として守るべき正しい道の意味を探求していく心を養うことであります。
【コラム4】 心訓五箇条『勇の心を養う』
勇気の精神的側面は〝落ち着き〟であるとされます。
まことに勇気ある人は常に落ち着いていて、決して驚かされたりせず、何事によっても心の平静さをかき乱されることはありません。
破滅的な事態のさなかでも心の平静さを保ち、さらにいえば危険や死を眼前にしてなお平静さを保つ人。。
言い換えればこれを『余裕』と呼び、余裕はその人の大きさの何よりの証拠であるといえます。
それは圧し潰されず、混乱せず、いつもより多くのものを受け入れる余地を保っています。
また自分自身を客観的に観る眼を持ち、煩悩のままに道を外さぬよう己を戒める勇気を兼ね備えます。
これが永心道空手が養うべき【勇の心】であり、それは肉体と精神の調和から生み出されるものであると確信します。
【コラム3】 心訓五箇条 『禅の心を悟る』
○森羅万象、心が乱れない考え方
『禅』とは「沈思黙考により、言語表現の範囲を超えた思考の領域へ到達しようとする人間の探究心を意味する」とあります。
つまり〝自分自身の存在の真実を探すこと〟という解釈になります。
そしてその方法は【黙想】であります。
黙想することで呼吸を落ち着かせ、己の〝心〟を観ることで自身の人格を形成していく手段となり得るため、永心道空手では稽古の前後に必ず黙想を行います。
そして禅を通して空手を学ぶ上で最も大切なことは〝心の育成〟であります。
人生においてのあらゆる困難や苦悩を乗り越える心の強さこそ、ゆとりある人生を歩める秘訣
ではないでしょうか。
【コラム2】 心訓五箇条『武の心を習う』
○戦わずして勝つ心の習い方
人間関係において争い事は常であり、互いの思考は異なって当然なのだから争いを無くすことは難しいことです。
しかしながらできることなら争いを避け、且つ自身に優位な状況で事を収める事ができればこれに超したことはありません。
彼(か)の孫子兵法の一文に
『百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり』
とありますように、
〝百回戦って百回勝ったとしてもそれは最善の策とはいえない。戦わないで敵を屈服させることこそが最善の策である〟
と述べています。
さてそのためにはどんな手段や方法が考えられるのか。。
スポーツにおいては決められたルールの中で勝敗を決めることが目的ですが、実戦においてはルールなど存在しません。
例えばどこかの国からこちらをめがけてミサイルが発射され、『ちょっと待った! ミサイルを元に戻して!』と言っても発射されたミサイルが元の鞘に収まる訳がありません。
つまりは〝待ったなし〟の世界です。
これは人生にも当てはまることで、こと武士に関しては〝人生とはやり直しの利かない一発勝負〟という考えが基本なので 敗北・失敗=死 となる状況において「失敗してもそれを糧にやり直せばいい」とはならず、人生は常に真剣勝負であったわけです。
永心道空手においてもこの『人生真剣勝負、待ったなし』の精神を習い、生きることに前向きに、真剣に取り組む姿勢を養う心の訓示の一つとしています。
【コラム1】 心訓五箇条について
永心道空手では心身鍛錬のため以下5つの心訓を掲げています。
武の心を習い、 (戦わずして勝つ心の学び方)
禅の心を悟り、 (煩悩に心が乱れない考え方)
勇の心を養い、 (あきらめず、くじけない心の養い方)
義の心を重んじ、(人を大切にする心の持ち方)
礼の心を尽くす (万物に対し、いかなる状況においてもに感謝の心を持ち続ける)
武術を学ぶということは〝心を養う〟ことも意味し、空手の技法はともすれば〝諸刃の刃〟となり得ます。
その刃(やいば)を扱う者たる人格形成を修行していくことが永心道空手の幹であります。
そして空手を通して自身の人生を心豊かに過ごしていけるよう、常に【心の鍛錬】に励むことが肝要です。
各項目の詳細は次回より👍
★空手道永心武館★
さいたま市緑区馬場1-12-13